人類は1970年代初頭の時点で月に到達する技術を備えていたにもかかわらず、有人月探査はその後約50年にわたって途絶えた。英アングリア・ラスキン大学のドミニク・ビチナンザ准教授は、その主因は技術的な限界ではなく、政治判断や予算、国際協力の枠組みにあったと指摘している。
オンラインメディアGigazineが8日に伝えたところによると、ビチナンザ氏は、アポロ計画後に生じた長い空白について「持続可能な計画を欠いていたためだ」と分析した。
米国の有人月探査は、1972年のアポロ17号を最後に中断した。アポロ計画では1969年から1972年にかけて計12人の宇宙飛行士が月面に降り立ったが、その後は約50年間にわたり、同規模の有人月探査は実施されなかった。
ビチナンザ氏は、「1970年代初頭の米国には、定期的に月へ到達できる能力があった」としたうえで、「それにもかかわらず、再び月を目指すまでこれほど長い時間を要したのはなぜか、という疑問は当然だ」と述べた。
同氏によれば、問題は技術の後退ではなく、政策面にあった。そもそもアポロ計画は、長期的に継続することを前提に設計された事業ではなかったという。
1961年にジョン・F・ケネディ大統領が月面着陸の目標を打ち出した当時、米国は冷戦下にあった。月面着陸は科学技術の成果であると同時に、ソ連との体制競争で優位を示す象徴的な国家プロジェクトでもあった。
ただ、その政治的な追い風は長く続かなかった。ケネディ大統領の死後も計画自体は継続したが、ベトナム戦争の長期化に伴う戦費負担や国内政策の優先が重なり、宇宙開発を後押しする力は急速に弱まった。
NASA予算は1966年にピークを迎えた後、減少に転じた。目標達成後、アポロ計画は終了した。
その後の米国は、有人月探査を継続的に進めるための条件を整えられなかった。ビチナンザ氏は、持続可能な宇宙探査に必要な要素として、安定した政治的コミットメント、予見可能な長期資金、そして明確な目標の3点を挙げる。
しかし、アポロ後の米国は、この3要素を同時に満たすことに苦戦した。政策の重点も変わり、リチャード・ニクソン政権はスペースシャトル開発を承認。NASAの軸足は深宇宙探査から低軌道での運用へと移った。
その後も月への再挑戦構想は繰り返し打ち出されたが、政権交代や議会情勢の変化の中でたびたび頓挫した。
ジョージ・W・ブッシュ政権期の宇宙探査構想も、巨額のコストと政治的支持の不足に直面し、実行には結び付かなかった。月帰還や火星探査を含むビジョンも、バラク・オバマ政権で方針が修正された。
ビチナンザ氏は、こうした計画のたび重なる見直しが、予算制度の構造的な制約を示しているとみる。大型の宇宙開発計画には数十年単位の安定財源が欠かせないが、実際には国防、医療、社会保障といった他の財政項目との競合が避けられず、政治サイクルの影響も受けやすいという。
政権交代や議会指導部の交代も、政策の継続性を損なう要因として挙げた。
さらに、有人月探査を進める大義そのものが薄れたことも大きかった。冷戦期にはソ連との競争という明確な動機があったが、冷戦終結後は、それに代わる政治的・社会的な推進力が乏しかった。
科学面でも、有人探査はロボット探査に比べて費用対効果が限定的だとの指摘が続いた。商業的な収益モデルも明確ではなかった。
こうした中で進むアルテミス計画は、従来とは異なるアプローチを採っている。ビチナンザ氏は、アルテミス計画について、火星探査に向けた前段階という科学的目標に加え、民間企業や各国との連携を中核に据えている点が特徴だと指摘した。
SpaceXなどの民間宇宙企業が参画することで、コストと技術リスクを分散しているほか、月・火星探査に関する国際協力の枠組みとしてアルテミス協定も整備した。
こうした仕組みは、政治的な支持基盤を広げ、長期プロジェクトの持続性を高める手段として評価されている。
ビチナンザ氏は「アルテミス計画が成功するなら、それは政治、経済、社会、科学の各要素が持続可能な形で結び付いたからだ」と述べた。そのうえで、「アポロ後の50年の空白は技術の問題ではなく、民主主義体制の下で長期の宇宙探査を維持することの難しさを示している」と語った。